「社会で生きる」ために

9/3から、また学校が始まります。


随分昔の話しになりますが、

「なぜ学校に行かなくてはいけないの?」

そう親に聞いた覚えがあります。

「勉強するためよ」

「それだけ?」

「友達をつくるとかね」

私は思いついたので、さらに尋ねました。

「確かにうちの家では『家庭教師』なんて有り得ないから『勉強したければ学校にいくしかない』かもしれない。でも、友達は近所でも出来るし、友達に関しては学校に行ったついでに出来るくらいに考えたらいいのかな?」

このとき親が呆れた顔をしました。

「普通は『友達がいるから学校に行く』というもんちゃうか」


私にも、もちろん仲の良い友人はいました。

でも、『そのために学校へ行っている』とは思えなかった。

近所の学校に行った先で仲良くなった。

そんな感じ。

確かに友人と過ごす時間は楽しかったし、今でもあんなことあったな、こんなこと話したな、と楽しい想い出を思い出すこともあります。


私の親しい友人たちはもし私が学校に来なくても「彼女には彼女の考えがある」

こういうふうに思ってくれるような友人たちだったように思います。


「人にはそれぞれの事情があり、考え方も、感じ方も違う」



この当たり前のことが「分りあえていない関係」を続ける意味はあるでしょうか?


いじめがあったりすると、「いじめられる側にも問題がある」

という意見が台頭してきます。

はっきり断言します。

「人の嫌がることを自ら進んで行うことに正論などない」

「いじめるのは、その子に問題がある」

と私は思います。


確かに自分に自身がなかったり、うまくコミュニケーションが取れなかったり、

自分で落ち込むことってあります。

年いってからでもあることです。


上手くいかなければ反省することは反省して「あとで謝る」、

今の自分以上の実力なんてないんです。


何事もうまくいかないときだってあります。

もうそうなったら、そのときはその事態をなんとかしようと思うのは諦める。

人は、開き直りとは違う自分との付き合い方をもっと学ぶべきです。


中学や高校ってあとで思えば「青春時代」です。

本当に青い。


今の居場所が自分に合っていないことがあっても、

今すぐどうにかしようと思わないで。


親や友人、学校の先生で嫌な人がいるとして、

その人をどうにかしようと思わないで。


でも、何かのタイミングで手を差し伸べられたら、

そこでこそ勇気を出して、話してみて欲しい。


自傷したい気持ち、自分を消したい気持ち、死んでしまいたい気分、

とてもよくわかる。


それでも「自分の存在を自分で消すの、ちょっと待って」

この「ちょっと待って」を繰り返してほしい。


「大人は嘘を言う」と思ってるかもしれない。

それでもいい。


明日の学校が始まる前に「死のうか」

と迷っているなら、ちょっと待って。


心が弱いんじゃなくて、心が優しい人であることって、

とても大切だと思う。

そういう人が息がしやすい社会、自然体でいられる地域づくり、

そういうことを基本にして活動している人達もいます。

そういう場所にたどり着けるように、

今は「ちょっと待って」


(私は下記リンク先とは全く関係がありませんが、今日のツイートに上がっていて、記事を読んで「これはアリだな」と思いましたのでここに貼っておきます)

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