なぜ「街活」と「井戸端交流会」なのか?
「街活」と「井戸端交流会」 今回はなかなか伝わりづらく悪戦苦闘しきりな「街活」についてと「井戸端交流会」をなぜセット事業として行うか?について書きたいと思います。
日々の暮らしの中で思うことは、「音が出しにくい」ということ。
「気軽に集まれる場所がない」ということです。
みなさんも騒音にはとても敏感ですよね。
私がNPOの活動を通して、さらに気がついたのは、「楽器を気軽に演奏出来る場所がない」「小銭程度で集まれる場所がない」ということでした。
公民館は応募者が多いと抽選になって使えないときもあると聞いています。
その点、スペース泉なら電話でも予約が出来るので、気軽でスムーズです。(笑)
イギリスでは駅の中で楽器を演奏する場所が駅の構内にあったり、中国には公演にテーブルと椅子があって好きに使って良かったりします。
そこは、市民にとって「憩いの場」として機能しています。お金もかかりません。
日本でも大きな駅や整備された公園では、歌や演奏、ベンチが確かにあります。
でも、近所で暮らす私たちにとっては日々の暮らしの中にそんな場所はありません。
人というのは「常に必要なことだけして生きているわけではない生き物です」
その最たるものが「文化や芸術」ではないかな?と思うのですが、こういうことに時間やお金を割くことが出来る人だけが楽しめばいいというものでもないはずです。
私は絵を描くのですが、画材は高いし、場所は要るし、中学生のときには家庭の事情で諦め、結婚後の子育て中にも全く「絵を描くこと」は不可能でした。
何かをやろうと思うとき、「場所」は必ず必要です。
既に自分の「部屋」を持っている人はいろいろ出来ると思います。
でも、持ってない人は諦めるしかないのか?
「文化や芸術」は「人が人を豊かにする、いわば心に栄養を送る作業内容を作ること」です。
日本では「飯が食って行けない」という理由で最も脇にやられる職種ですが、そろそろ子供たちにも「金」のため「飯」のためばかりじゃない選択肢をきっちり教える国になる時期が来たのではないかと思います。
何十億も稼ぐ必要性はなく「自分の人生をしっかり生きる」ことを親側が教えるようになって欲しいです。
でないと、生きていても仕方ない、とか、本当に自殺してしまうとか、他の子をいじめるとか、自分の存在意義を見つけられないで人生が終わってしまいます。
他人に自分の価値を認めてもらう必要はないのです。
「街活」は「文化的な部活」をコツコツとやる場所の提供をしています。
「井戸端交流会」は「街活」で活動する人達がゆるやかに自発的に自らがつながっていく交流会を目指しています。
人生いろいろ、人もいろいろ、「自由に歓談や議論の出来る場所」として街と人も発展していくことを願っています。
全ての人が「文化や芸術」をやる人にならなくてはいけないのではなく、「心から楽しめる趣味」ともすれば「仕事になる場合も含めて」、その一助を「NPO法人創泉舎」が出来れば最高にありがたいと思い、活動を続けています。
(理事長 坂本新子)
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